イエステーション矢口店の最寄駅「矢口渡駅」
住所は多摩川1丁目と少しややこしいですよね。
私も引っ越してきた当初は混乱し、訪問者に最寄駅と住所を教えると訪問者が混乱することもよくありました。
今回は、そんなややこしい地名について調べてみました。
上図に示した3駅が東急多摩川線の中でもややこしい駅3選です。
●矢口渡駅:多摩川1丁目
●武蔵新田駅:矢口1丁目
●多摩川駅:田園調布1丁目
見事なまでに一致しませんね。
地名以外に駅名の由来があるから一致しないのはわかるのですが、ここまで互い違いにややこしくさせているのは初心者泣かせなところがあります。
では、それぞれの駅名にどのような由来があるのでしょうか?
多摩川1丁目にある矢口渡駅は、1923年11月1日に「矢口駅」として開業しました。
1930年5月21日に現在の「矢口渡駅」に改称されています。
名前の由来は、1949年まで駅近くに存在した多摩川の渡し船のひとつである「矢口の渡し」に由来します。
この「矢口」の由来は、日本武尊(やまとたけるのみこと)東征の折、矢合わせをしたことと言われています。
ここでよく勘違いされるのが、千葉県松戸市にある「矢切の渡し」
ちあきなおみさんの同名の曲が有名ですね。
ちなみに、矢切の渡しの「矢切」も昔々に川を挟んで対峙し合戦に及んだという歴史があります。
矢口1丁目にある武蔵新田駅は、1923年11月1日に「新田駅」として開業しました。
1924年4月1日に現在の「武蔵新田駅」に改称されています。
名前の由来は、駅近くに所在する新田神社に由来します。
しかし、他の地方にも新田と書いて「にった」や「しんでん」と呼ぶ駅が存在していることから、旧国名(武蔵国)を冠して「武蔵新田」となりました。
ちなみに、新田神社の祭神は贈従三位左兵衛佐源朝臣新田義興公です。
この新田義興は新田義貞の次男で、元服に際して後醍醐天皇に「誠に武勇が器用である。義貞の家を興すべき人なり」として義興の名を給わったほどの無類の勇将です。
しかし新田義興は、義興の進出を畏れた足利基氏に命を狙われることになります。
足利基氏が足利に寝返った元家臣や少将局という美しく身分の高い女性などを動かし暗殺を企てるも、少将局が義興に心を寄せ、危険を知らせたために失敗。
そして、1358年4月に足利尊氏が没した直後、元家臣に攻め入る好機とそそのかされた新田義興は、1358年10月10日に少数の側近を従えて隠密で矢口の渡しから川崎側の対岸に船を出します。
しかし、買収された船頭があらかじめ舟底に穴をあけ、舟をこぎだしたところで逃げられ、両岸から挟み撃ちされたため自刃、あるいは対岸に泳ぎ着いて斬り合いとなり討死しました。
1358年10月23日、足利基氏から論功を受けた家臣のひとり、遠江守が恩賞地へ向かう途中、謀殺に協力した船頭の舟が矢口の渡し場に迎えに来ましたが、暴風雨が起こって船頭は川に転落。
驚いて引き返した遠江守には雷火が落ち落馬、数日後に狂死したと言われています。
そして、新田義興誅殺の関係者ゆかりの寺社仏閣が落雷で消失したり、矢口付近には夜ごと光り物が現れて往来の人々を悩ますようになったりしました。
これらが新田義興の怨霊が招いた祟りとされ、近隣の住民が義興の霊を鎮めるためにその年のうちに新田明神社を創建したのが、後の新田神社となっています。
田園調布1丁目にある多摩川駅は、1923年3月11日に目黒蒲田電鉄の目黒駅~丸子駅(現・沼部)間開通と同時に「多摩川駅」として開業しました。
そして、「丸子多摩川駅」「多摩川園前駅」「多摩川園駅」を経由した後、再び「多摩川駅」を名乗るに至っています。
名前の由来として明言されている資料は探しきれなかったのですが、河川の多摩川に近いことからこの名前になったと考えられます。
ちなみに、「多摩川園前駅」「多摩川園駅」だった頃には近隣に多摩川園という遊園地がありましたが、後に閉園しています。
また、多摩川の名を冠する駅は他にもあります。
「京王多摩川駅」は調布市多摩川4丁目、「和泉多摩川駅」は狛江市東和泉4丁目、いずれも河川の多摩川の近くです。
これもまたややこしいですね。
土地勘があれば問題はないのでしょうが、土地勘のない人が目的地の駅を間違えてしまいそうです。
今回は「矢口渡駅」「武蔵新田駅」「多摩川駅」の駅名の由来をご紹介しました。
こうやって見ると、ややこしくなった理由にも納得がいきますよね。
次回は今回取り上げた「矢口渡駅」「武蔵新田駅」「多摩川駅」を、家賃相場などの不動産の観点からご紹介していきます。